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乗光寺について

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乗光寺は能登半島の最先端、珠洲市にある、真宗大谷派(浄土真宗) の寺院です。
東本願寺を本山としています。
現在の住職で23代です。

 

住職 落合治夫

私は関東からこの寺に来ました。来た頃はただひたすら仏法を聞き続けて生きて来られたたくさんのお年寄りがおられました。そんな方々を一人また一人とお送りし、気がついたら過疎が進んでいました。
彼らから手渡されたものは何だったのか・・・
一人でも多く方々に伝えたいと思っています。

坊守 落合誓子

私はこの寺の坊守と「ノンフィクションライター」という二足のわらじを履いてきました。
古くて新しい親鸞聖人の教えと、子供の頃に聞いた「節談説教」のリズムが物書きとしての私の原点です。

副住職 落合 紅

私も染物屋と副住職という二つの仕事を持っています。染物のワークショップを主に担当します。
この能登で採れた草木や花の色を布に写すことを楽しんでいます。

二匹の猫

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雑種の白い猫 ツネとウータンが皆様をお出迎えします。

乗光寺の歴史を紐解くと
その初めに「一向一揆」があります。

乗光寺坊守 落合誓子・ノンフィクションライター/ 作家・ 記

乗光寺はあの一向一揆の統率者と繋がりがあります

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寺に現存する最古の資料は 1597 年のものです。

乗光寺に「顕如上人 (けんにょしょうにん)」 の御影があります。 顕如上人はあの一向一揆の統率者であり、大阪 城の前身の「石山本願寺」で織田信長と戦った ことで有名です。その御影の裏には、顕如上人 の長男で、のちに東本願寺の初代となる、教如上人 (きょうにょしょうにん) からの「東本願寺」の末寺になるよう要請する檄が残されています。 教如上人は最後まで信長との戦いを止めようとせず、一向一揆を指揮し続けたことで知られています。 石山本願寺を包囲した信長の火器の熱がまだ冷めやらぬ頃、乗光寺は教如上人が呼びかければ呼応する体制のある寺であったことをうかがわせるに十分な資料ということができます。

乗光寺が直接一向一揆に関わったという証拠はありません。 しかし、私は加賀の一向一揆の残党が能登半島 を遡(さかのぼ)り、逃げ延びたのではないかと考えています。何十万人もの僧俗が惨殺されたという一向一揆の事実と突き合わせると、半 島の先へ先へと逃げのびた人たちがあったことは容易に想像ができます。

「一向一揆で戦った証拠」を残せるのは、時の政治権力と取引することが可能なほどの力を持った大寺だけで、大半は証拠になるものを焼き捨てて、半島の先でひそかに生き延び、力を蓄えたのではないかと思います。そんな寺々を、教如上人は、力のある大寺を使って呼び興 し、末寺とすることで、東本願寺を成立させたのではないでしょうか。そこにはどんなドラマがあったのか、いつの日か調べてみたいと胸躍らせています。

乗光寺に伝わる大塩平八郎伝説

乗光寺には江戸の末期、腐敗した大阪の町奉行に物申すために挙兵した「大塩平八郎の乱」 (1837 年 ) で有名な、あの大塩平八郎が逃げ延びてきて、寺で匿(かくま)ったという不思議 な伝説があります。

何日か匿って、朝に出立したその日の夜に「たいまつ」を持った討手が来て、寺の天井に槍をさして、捜索していったという伝説ですが、明治8年生まれの曽祖母が近所の老人や自分の親族から直接聞いたという「恐怖のほど」を家族はみんな生々しく語られて育ちました。折戸という外浦の小さな港から、九州方面に落ち延び たということです。

大塩平八郎は、死後残したのは異様な黒焦げ遺体だけで、客観的には身元を確認することはできなかったようです。しかし、大阪の隠れ家に自ら火を放って焼死したというのが正史です。 なぜ乗光寺にその死んだはずの大塩平八郎を匿ったなどという途方もない伝説が有るのか誰にもわかりませんが実際にその直後に当時の住職が半年に亘って、金沢城の座敷牢に幽閉され、取り調べを受けたという事実があるということです。

ばかばかしくも興味深い伝説です。 大塩平八郎の伝説は、少し早めにやってきた倒幕の志士たちの物語の一つですが、寺の歴史では、幕府を実際に倒した本当の倒幕の志士や当時の公家衆と深いつながりがあったことを証拠づける品々が残されています。

乗光寺にどうぞお越しください。
ただお泊まりいただくだけでも、普通の旅館では味わえない不思議な空気を体験していただけます。